(聞き手)
当時の出来事で、印象に残っている事は何でしょうか。
(伊藤様)
午前中に多賀城中学校の卒業式があり、その後、買い物に行った際に地震に遭いました。もう立っていられない状況で、大きな堀まで四つん這いになって逃げました。大きい電柱も波のように揺れていて、ただごとでないと思い、急いで自宅に戻りました。家で飼っている猫も恐怖を感じたのか、2階で鳴いていました。
発災後まもなく、私達
民生委員は、鶴ケ谷地区のパトロールをすることになりました。鶴ケ谷地区で用意してもらった
無線機で、パトロールの件を連絡すると、まずは天真小学校に集合とのことでしたので、そこに向かうことにしたのですが、私の担当区には92歳のおばあさんがいて、連れてくるよう依頼されたので、別のパトロールの方と一緒に、走ってその方の家に向かいました。
しかし、ドアを叩いても応答がありませんでした。ふいに、道路の方を見たら、水が流れてきていました。それと同時に石油のポリ缶などもゆっくり道路に流れてきました。私が区長さんに、おばあさんは留守であった事と、道路を見たら水がたくさん流れてきた事を
無線で伝えると、「それは津波だから逃げろ」と言われ、走って天真小学校まで戻りましたが、すでに避難した方でいっぱいでした。
震災の1カ月くらい前に、多賀城市社会福祉協議会から防災訓練をすると、
民生委員にも声が掛かりました。その際に妊婦さんはこの部屋、病人はこの部屋、車いすの方はこの部屋という事で訓練をしていたので、今回は、それがとても活かされたと思います。七ヶ浜町から避難して来た方たちは、車で
高台に逃げろと言われて来たそうで、体育館も教室も避難した方が沢山いました。
日も暮れてきたころ、食べ物が無い事に気が付きました。市役所からは毛布の支援物資が運ばれました。毛布は赤ちゃんのいるご家族だけにと思いましたが、毛布を奪い取る方もいて、なかなか、本来配るべき相手に毛布を渡せませんでした。電気も灯油も無かったのですが、私の知人から大きい石油ストーブを3つ借り、灯油も自宅にあるものや、近所の方の分も集めて何とか一晩過ごしました。
天真小学校では水が止まっていたので、校庭に仮のトイレを作りました。校内のトイレはかなりひどい臭いがする状態だったのですが、中にいる人たちは慣れてしまっているのか、それが分からないようでした。そこで、教頭先生にお詫びし、みんなできれいに掃除しました。それから3日間ほどは市のごみ袋に用を足してもらっていましたが、それでは足りなくなったので、校庭に簡易トイレを7つほど設置してもらい、汲み取り業者さんにも、し尿処理を手伝って頂きました。
同時に、体育館や教室にいた人たちの間では風邪が広がり、風邪薬が不足していていました。たまたま、富山の薬屋さんから薬を買っていた方がいたので、その薬を分けて頂きました。1週間後には坂総合病院の先生や神戸から来たお医者さんなどから支援を頂きましたが、それまでは頂いた薬で持ちこたえました。それを教訓に、私も医薬品などを買い揃えました。
(聞き手)
民生委員の立場として苦労された点や、これから変えていった方が良いと感じた点は何かございましたか。
(伊藤様)
避難してきた方たちの間では一種の連帯感のようなものが生まれていましたが、避難者
名簿が出来たのは1カ月ほど過ぎてからだったので、そこが反省点です。それまではハンドマイクを使って、体育館じゅうに呼びかけて探していました。それで見つからなければ教室も探していたのですが、他の
避難所に行っていた方も当然いたので、
名簿に名前を書いてもらい、すぐわかるようにしておく事が大事だと痛感しました。
(聞き手)
名簿を作ったのは、市役所の方の指示か何かだったのですか。
(伊藤様)
そうです、市役所の方が作りました。訪ねてくる人が沢山いたので、このままでは駄目だと思われたそうです。最初から
名簿を用意して頂けるとなお有難いのではと思いました。